昭和五十年十二月十五日 御理解第二節
「先の世までも持って行かれ子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば誰でも受けることが出来る。みてると云う事が無い。」
みてる事の無い限りない御神徳を受けることが出来る。大体金光大神、教祖の神様はどういう神徳をお受けになられたのであろうか。もう本当に私は今朝方から思うのですけど、金光大神の世界位素晴らしい広い豊かな世界は無いと思う。
金光大神の世界。それはまあ釈迦の世界がある。キリストのいわば世界がある。ところがあらゆる宗教の教祖と言われたりする人の世界がやはりあるだろう。
けれどもそれは限りないと云う様な世界ではない。又はこれは許すけどこれは許されないと云った様な世界であるけれども、金光大神の世界はです、一切が許された、所謂限りが無いと云うか、限りがない世界です。金光大神の世界は・・・・と云うて、金光様のお徳にいわば腰掛けて居ったんでは、やはり理屈は同じです。
自分自身がそういうお徳に挑戦すると云うか、それに向かって倍力の徳を受けて行くと云う信心を受けて行かねばいけません。
金光大神の世界、金光大神の心と云う心はどういう心かと云うと、どちらに転がしても歓びしか出らない。云うならどちらへ転ばしてもああおかげじゃと云う世界しかないということ。
手鞠におかげと云う字を書いてころころ回す様なものです。もうどこでもおかげおかげです。いや、何処を転がしても歓び歓びなんです。そういう金光大神は御神徳をお受けになられた。だから私共もやはり目指さして貰うのはそういう御信心を頂かして貰いたいと思うのです。
昨日は日田の綾部さんのところの綾部さんのおばあさんに当たる方の四十年の式年祭がございました。で、五時位だったでしょうかね。お祭りは六時位になったでしょう。ですから御直会が何とか云う料亭に席が取ってございましたから、そちらへ参りまして、そこはフグの料理で大変有名なお店なんです。で、フグ料理でお直会を頂いてそこで一時間か一時間半位過ごさして貰うて丁度昨日は日田の共励会の日でございましたから、私共も参加さして貰うて、まおかげを頂いた。一寸時間の上に万事万端御都合お繰合わせを頂いたんですけれども、そのフグを食べさして呉れるその日田の料亭と云うのは大変有名で、この肝を食べさして呉れると云うので有名なのです。もうフグの一番毒の強いのは勿論「マコ」ですね。「マコ」と肝が一番。肝は血で固まって居るそうです。ですからね、これが一番、いわば毒があると云われております。その有毒な毒をです、また、で、なからねば味わえんと云う素晴らしい、云うなら調理法と申しましょうかね。で、肝を食べさして呉れる。どうでしたかね、歌舞伎役者の三津五郎さんが「フグ」を食べて亡くなりました話をあちらの仲居さんがしておりましたが、無理を云ってその肝の料理をさせてやりそこなったんだそうですね。そんなに怖い。ところがあちらではそれを安心して頂けるその秘伝の様なものがあるのでしょうね。
昨日フグ料理を頂いて、所謂お刺身からチリから、云うならその0肝を頂かして貰ったんですけれども、結局調理の仕方だと云うのです。それこそどんなに猛毒、それこそこれを食べれば命を取ると云う程しのものでも調理法如何に依ってはそれが天下一品の、いわば珍味と云うことになるのです。
金光大神はね、例えばそれが毒になる様なものであってもです、金光大神の心に掛かったら、云うなら金光大神の手に掛かったら一切が天下一品の珍味、おかげでないと味わえない程しの有難いと云うものに調理を仕上げて行かれる程しの御神徳であたと云う事です。 まあ例えて申しますと金神様の事をもう悪神邪神の様にある宗教では申します。ですから金神封じをしたり、金神避けをしたりと云う様な、けどもそういう悪神邪神と云った様な神様でも金光大神の手になったら、もうそれこそ慈顔溢れるばかりの神様にしておられますもんね。
その一事から云うても一事が万事です、もう一切をおかげおかげ、そりゃそれまでには随分とお試しも受けられ随分と信心を徹底した信心をなさったことでございましょう。
お家には七墓築く様なことが次々と続いて行く。それでもです、それを金神様の「崇り」「障り」とは云わずに、知って向かえば命を取り、知らずに向こうても眼を取ると云う程しに、いわばあらたかな働きとして頂いて居られると云う事です。
ですから又こちらが真心、実意を以て実意の限りを尽くして行ったなら、またその眼を下さることも出来るだろう。また命をも下さる事の出来る神様だと確信して向かわれた。どうぞお向きを変えて下されと云う姿勢である。
そこに悪神邪神とばっかり思うておった金神様がです、天地金乃神と云う神様へ姿を変えてしもうて行かれる。所謂それこそ猛毒である金神をね、それこそ慈愛溢れんばかりの神様にしておられると云うところです。ね、素晴らしいでしょうが。
金光大神の世界ちゃそうです。例えば釈迦の世界というならばです、決して牛肉は食べちゃいかんよ、魚を殺しちゃいけないよ。殺したら罰被るよと云う様な世界にしか住んでないのです。
キリストでもそうです。ああしてはいけないよ、こうしてはいけないよ。お酒なんかは全然呑んではいけないよと云う世界なんです。キリストの世界はそこに十戒と云う様な厳しい掟がある訳です。仏教だって五戒と云う、所謂厳しい掟があってそれに触れたら所謂罰が当たると云う様になるのです。
ところが金光大神の世界にはそういう様なところが無い。牛肉も人の命のために、魚も人間の食料命のために天地の神が作り与え給うものと云う頂方を開かれた。ここが毒になってここが毒じゃないと云うのじゃなくて、もう一切がおかげとして頂けれる、所謂金光大神は丸い手鞠に喜びとかおかげとかいっぱい書いて、ころころと転がすような自由無礙、そういうお徳を教祖金光大神は受けて居られた。成程天地金乃神と同根と天地の親神様が讃えたお言葉を以て申して居られますように天地金乃神と同根と云う事はそういう素晴らしいことです。
昨日も熊本から或教会で長い信心をして居られる方だそうですが、自分と誰誰さんところの家に下水が堀割が出来るちゅうのです。
だから一軒の人は丁度そこが鬼門隅になるから、もう絶対反対と云う。とてもこっちも気持ちが悪いもんじゃから、なら合楽の先生からお許しを頂いたらと云うことで電話が掛かって参りました。
心配はいけませんよ。金光大神のお取次をなす事にそんな鬼門筋も何もあったもんじゃないですよ。そうするが一番便利が良いならそうなさったが一番便利が良いですよと云いましたら、ああそれで安心しましたとその安心出来ましたと云うから何もないのです。
けど、ここの鬼門筋に下水が通っている。これはもう家の運が悪くなるに違いない。鬼門筋に下水が通ると云うことは許されないと云う、例えば金光大神の信心を頂いとってもそういう頂き方をすればやはり障です。
だから如何にその金光大神の世界に住んで居っても、なら私共の頂き方が悪かったらやはり「フグ」の毒にも当たるということです。 第一水洗いもしない、いきなりに「まこ」やら「しらこ」やら食べると毒になると云うことです。「肝」でん何でんがぶがぶ食べよるならもうその場で死んでしまうです。そこにはちゃんとそのもう、例えば「フグ」一尾に水一斗と昔から言われるそうです。だからその一斗の水を使うて洗い上げた上にももう洗い上げる。
昨日聞かせて頂いたんですけどね、その肝なんかは裏ごしをするそうです。そしてしか出さんそうです。
と云う様に、毒をスッキリ取ってしまったら、後はそういう猛毒のある食物もなからなきゃ、他に味が無いと云う様な天下一品の味、珍味と云う事になるのです。
ね、金光大神はそういう様な、例えば猛毒のものでもです、悪神邪神と云われる金神でもです、それを金光大神の頂き方一つに依って慈顔溢れる天地金乃神と云うことにしておいでられた。しかも金光大神の世界と云う世界には、あれがあってこれがあって良いの悪いの、毒の毒じゃないのじゃない。毒までも薬にしてしまわれるところの心の状態と云うものがです、開けて居られた。そう云うお徳を、いわば限りなく頂いて行ける世界。
だから自分達は金光様の信心しとるけんでと云うてです、なら毒に当たらんかと云うとそうではない。やはり熊本の信者さんじゃないけれども、自分の方の前を鬼門隅が通る。それは無理にと云うて安心がいかんなりにです、有難いとお礼ば申し上げんなりにしたら、やはり鬼門隅じゃから運が悪くなると云うことになるでしょう。心にひっかかるから、昨日共励・・・・私の話を聞いて頂いてその後に共励になりました。
日田の教会の御信者さんが、で合楽にお参りしとる方達が三、四人居られます。それで色々とこの頃から先生達が三人も、三人か四人見えて、とにかく合楽参りだけは止めろと、息子どんは参ってよかけんど、あんたどん夫婦は参ちゃいかん。道を間違えとる。そげなこっちゃおかげにならん。見よってご覧、あんた絶対おかげ頂かんからと云われたと云う訳です。
それに対して秋永先生が色々説明しとりました。聞けば分かるです。けれどもやはりひっかかるです。言うて聞かせられてそう云う道理のもんだと聞いただけではやっぱ引っかかるです。その後に正義さんがこう云う発表を致しとりました。
あの人は子供の時お母さんが甘木の教会でおかげを頂いたんです。久富建設の社長です。それで自分達も母親に連れられて甘木にお参りをして甘木の親先生のお取次を頂いて、色々におかげを頂いとる。それが遠いからと云うので近くの三井教会におかげを頂いてそして合楽、当時の椛目におかげを頂いた訳です。
或時甘木の方へ参りましたから、親先生の奥城に参拝させて頂きました。それはもう大変暑い日であった。今はどうか知りませんけど、その当時は山の上にそれこそこの筑紫筑後平野を一望に望める様なところに親先生の奥城がございます。
そこでね、御祈念をし拝しまして貰いよりましたらです、この炎天にこういう木陰一つもないところで親先生がお暑うあんなさろうと思うた。そして尚御祈念さして貰いよったらね、涼しゅうなったち、ふと目を上げて見たところが、お天とう様に傘が被ってござった。傘が出てきた。そしてあの涼しゅうなったと、その時に私は親先生にこう申しましたら、親先生が喜んで下さったのでしょう。私の心の中に喜びが湧いてきたと云う話をしとります。
親先生おかげを頂きまして三井教会、それから当時の椛目の神愛会の大坪先生の御取次を頂いておかげを頂いとりますが、大坪先生のお取次を頂かして貰うようになったら、こう云う心が使えれる様になりましたと云うて、お礼を申し上げたら、もう大変感動さして貰うたと、もうそこには何もない。三井教会にも引っかかってなければ甘木教会にも引っかかってない。椛目の大坪先生の御取次を頂いて、こういう心をお育て頂いて、ね、親先生がお暑うあんなさろう、真から思えれる心が開けてきた。
天地が自由になると仰せられるが、ね。途端に涼しゅうなった。と、目を上げたらお天道様に丁度輪が掛かったように、輪がかかって涼しゅうなっておったと。
私は今日皆さんに話を聞いて頂きたいのはそこなんです。この有難さと云う心には何も引っかかるものが無いです。秋永先生が色々ともうそれこそ理路整然と道を間違えちゃならん、本当の道とはこうだと、色々とけどそれでは説けないのです。理屈では分かっておってもやっぱり引っかかって居る。けど正義先生のその話を聞かせて頂くとです、もう聞いた人達はどうか知らんけど、私は正義先生が全然そこに引っかかってないと云うとこに素晴らしいなあと思わして頂いた。金光大神の世界とはそういう世界なんです。
今日私はその事を神様にお礼を申さして頂いて、この御理解を頂いて居る訳ですけれども、御神、心眼に頂いたのは、もう大変 な大広間にでも置けるだろうと云う「おげんちょ」です。お花を活ける、お生花を活ける大変大きな「おげんちょ」にです、着物(木もの)ばっかりをこんなに見事に活け上げられるじゃろうかと云う位に素晴らしい活け上げたいっぱいのお花を頂いたです。何流か分からないけれども、その着物ばっかりです。所謂花は入れずにね、草を入れずに木ものばっかり、木だけのそりゃもう素晴らしいその大きなおげんちょうに、もう物の見事に活け上げてあるところを頂きました。
そして今日、只今の御理解を聞いて頂いとる訳ですけども、金光大神の 使い方と云うものは、木の使い方ね、云うならばもうそれこそ私共がその心の、云うならば 大変な木ば、素人がすると薪もののごとなりましょうね。心得の無い物に扱わせたら、もうそれこそ薮のごとなっとりましょう。けれどもそれが、極めた人に手になるとそれは素晴らしい見事なお生花になっておるのです。 木の使い方、云うならば心の使い方、活け上げた方自分の心の活け上げ方。自分の心がおかげのなきも和賀心と仰るが、我心が不平であり我心が淋しかったり悲しかったら、もうそれでおかげは同じ事柄でも、ああほんなごとこれは神様にお礼申し上げんならん事を反対にこげん悔やんで居ると云うことが分かると、自分の心が生きて来る。喜びが満ちて来る、溢れて来る。そういう心の使い方を金光大神は教えて居られるのです。
おかげは和賀心にあると仰るのは、和らぎよろこぶ心、一切を和らぎ喜ぶ心で受けて行くと云うことは、自分の心をその様に活け上げて行くことだと云うことなんです。
だから、あれが引っかかりこれがスッキリとせんと云う様なことでは、だからスッキリしたおかげにもならなければ、その引っかかっておる心におかげが引っかかってこっちへ流れちゃ来んです。
それが云うなら横着とか、実意の無い心でです、心がまあ大きい人がありますよね。人殺しをしたっちゃ平気な人と云うのがあります。だがそういう横着な心でなくてです、有難いと云う心が全然引っかからないと云う心の状態を育てて行くことが金光大神の信心であり、そういう信心の徳を身につけて行くとそういう事になって来る。かえって有難いという心になって来る。
そこで最近合楽で云われます御祈念修行。昨日も北野の秋山さんがお届けされました。此頃もう毎日信行されて本当に有難くなって行く自分を有難い。そういうお届けがいくつもございます。
中に秋山さんが夜の御祈念でしょうか、十巻の大祓を奏上さして頂かれるそうです。ところが昨日だけはどげんしたっちゃ、有難くならなかった。大祓五巻上げたけれども、もう四巻、五巻目になると段々有難くなって来るとに全然有難いなんかよそよそしい大祓しか上がらない。ああこげなこっちゃ御祈念修行にゃならんと思うて、ふっと自分の心の中に湧いてきたのはね、それでも親先生がこういう修行をしろと云われたのだからと思うた瞬間に、もうそれこそ一遍に有難うなって来たと云うのですよ。
本当に分からないですね。親先生がこういう修行をせよと云われたからと思うた途端に後の五巻はもうそれこそ、涙にくれながら上げさして頂いたと云うお届けを昨日しとります。
だから有難くなろうとしたところで有難くなれるものではない。本当に素直な心で、親先生がと思うた途端に有難いものが頂けれる信心です。金光様の御信心とは、だからそういう、云うなら心を育てて行くことがです、とりも直さずそういう心で物を見、事を聞き事に処して行くのですから、一切が有難い有難いでおかげおかげで頂けて行けると云うことにもなる訳ですね。
だからこの御祈念修行はこれは大変な素晴らしい、云うなら金光大神の世界に住み、金光大神の受けられたお徳をまた頂けるような手立てになる程しの修行であることが分かります。皆さん本気で実行なさらなければいけません。
そういう有難い心で、いわば全てを事を活け上げて行く訳です。そういう喜びの心で見るのです。だから今迄腹の立つような事であっても、いや有難いお礼を申し上げねばならん事になって来るのです。ね、引っかかっちゃおかげがそこに引っかかります、ね。
今日私はこの御理解二節から、信心をすれば誰でもお徳が頂かれるという、それは先ず皆さんがです、金光大神の世界にある私と云うことを先ず自覚しなければいけません。
しかもその金光大神の世界にはです、そこに行っちゃいけん、此処に行っちゃいけんと云った様なものはなくて、これは云うなら金光大神の世界に、また合楽の世界がある。大坪の世界がある。その大坪の世界には、具体的に云うならば、成行きを大切にするとか、全ての事に御の字を付けさして頂けばと、全てのああこげな事しちゃ御無礼じゃろうと思うて、御無礼御無礼が積もり積もって御無礼になって仕舞う。
ところが今迄御無礼と思いよった事が、ね、例えばまあ仏教の世界で云うならば、こんな生臭気を食べよったならば、今に罰被るじゃろうと思うておったのが、その生臭気自身もです、命のために下さる神様の御恵ものであると分からせて頂いて、その御魚として御牛肉として頂かせて頂けれる。御の字を付ける世界に引っかかるものがない。そこにおかげが受けられるのです。
だからね、御の字さえ付ければ良いと云ったごたるですね、本当に御の字が付けられる心の状態が育たなければ駄目です。
これは云うならば合楽の世界であり、大坪の世界なのです。金光大神の世界に合楽の世界がまたある訳です。皆さんはその合楽の世界に住んで合楽の信心を身につけて行かれると云うことはです、一切のものに事柄に御の字を付けて御物として、御の字の付けられる信心を頂いて行くならばです、もう間違いなく限りないおかげに、限りない御神徳に触れて行くことが出来ると思いますですね。どうぞ。